冥想と夢見(25)を掲載した。
https://note.com/lockwood/n/nad555257cf4b
生命の樹の各々惑星に自我を持たせると、ひとつの生命の樹では足りなくなり、5つの生命の樹を意識せざるを得ない。この場合、左にある生命の樹は、金星が中央の柱にある樹だが、(youtubeでは、シリウスの樹と話した。)これを常に意識して、いままでの通常の生命の樹と、半々の生き方をするといい。この関係は、90度で、異なる次元を見る時には、この90度視線が重要だ。仏教が伝来してから、陰陽中和の考えが重要視されているが、ここからすると、陰陽極端な落差を好む縄文意識も、90度の関係で、これはあたかも空間の亀裂のようなところから、垣間見ることができる。渋谷のスクランブル交差点を、縄文の海の底と、書いたが、90度視線で見ないと、これはわからない。無意識に人はこれに影響を受けるが、しかし直視すると、それは存在しない。90度視線とは、結局視界の端っこで捉えることなのか。いつも意識しているのに、あたかもそれは存在しないかのように扱うのは、教育によって、そのような姿勢を促されているからだ。グルジエフの自己想起は、第二のわたし、第三のわたしなどを作って、そこから見た光景を印象の中に加えることだが、最初に、90度脇にいるわたし、というのを設定するといいのではないかと思う。それは左の生命の樹の視線だ。