いま書いているフィクションなどには、かならず夢で出てきたイメージが反映されていますが、言葉にするのが難しく、まだ霧の中にあるような内容は、夢の中に出てきた1シーンなどがうまく言語化できるように誘導する作用があります。たとえば、エニアグラムのことを考えている時に、このエニアグラムの特徴のどれを強調するといいかと考えた。すると、夢の中で部屋の中に7人の男たちがトランポリンを使っているかのように飛び跳ねています。そして壁に足をつけて反対に飛んでみたり。これはわたしが立方体の壁をユングのアーキタイプに結びつけるという考えに、さらにエニアグラムの「利点」を絡めようとしたので、そのことについてちょっとした手がかりを提供してきたのです。この夢のシーンがなかったら、発展させられなかった。あるいはもっと時間がかかった。で、夢ではひとつのシーンの映像に、四つくらいの意味を引き出すことができます。夢を解釈しようとした時、硬い頭で、特定の意味を引き出そうとするのは、原石をひとつの切り口でカットしようとすることですが、これが夢の意味がわからなくなる理由にもなります。肉体で生きている自我は局在的。つまりひとつの切り口。で、夢は非局在的。だからあたかも矛盾するかのような複数の解釈をしていくことでやっと意味がわかることも。この複数の解釈の中に、反対のものも含めるといいのではとも思います。駅に行くことは、駅から出ること。ひとつの解釈がないことがわかった段階で正しい解釈になると思われる。なぜなら非局在性だから。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。