2019年4月24日水曜日

20190424 映像が動く



昨日、芝公園の近くで、12感覚について講座しましたが、この12感覚はつながった一本の蛇みたいになっていて、どれかひとつを突出させたり脱輪させると、それにあわせて、他の感覚も追従してきます。で、一番強い影響力があるのは世界のどん底、おとめ座の視覚ですから、世界の移動の一番近道は視覚を変えていくことです。今日は夢の中で、完全にいつもの日常意識になっていて、それでいて周囲を取り囲む映像を意のままに動かすということをしていました。ただこの映像は、この世界のものではなく、いわく言い難いというような種類のものです。頭に白い光が出てくると、身体が電撃を受けたように振動し、まったく違う映像の世界に入るという体験が徐々に増えてきたのですが、こんどはこの映像を動かすわけ?映像が動くということは、そこで歩いているわけですね。その世界では、この世界と違い、歩くというのは足を動かすことではなされない。この世界では意識が働くとそれを筋肉が受け止めて、足を動かすのですが、夢の世界では、筋肉はなかった。意識が動くことでダイレクトに世界が動いた。わたしはこの世界でも、実は、前から自分が移動している時に、自分が動いているとは感じておらず、周囲の景色が動いているのだと実感することが多く、何か絨毯を手繰り寄せているような感覚で受け止めることが多いのです。足のほうにある車輪が回転すると、景色が動くのです。今日の夢の中で映像を動かしている時、たぶん同じ感じだった。

味覚はうお座で、生命感覚はさそり座、聴覚というか共感感覚はかに座という水の三角形についても説明しましたが、たとえば、わたしはイカの活け造りにしても、函館のナマコの活け造りにしても、味はわかりません。みな同じです。でも、120度関係にある生命感覚ははっきりとわかります。活け造りを食べるというのは舌で味わうというよりは全身で、食ったものの生命力を受け取ることです。でも西欧的なカニバリズムでは、もう生命力は失われているので、すると小手先の味覚で味わうしかなくなってしまいます。味覚は、食べたものと自分の間で摩擦が生じた時の、摩擦の味わいかたの違いです。一瞬の後に、それと一体化するので、味はすぐにわからなくなる。触るか触らないかという瞬間に味覚があります。で、そのことを思うに、味覚っていらないんじゃないの?と思うことは多々あります。一気に一体化する人に味覚はいらない。ただ危険かどうかのチェックに味覚は必要です。味覚には生き死にが関わっています。

舌は肝臓の出先機関で、舌に食物を乗せると、それを消化するための必要なものをすぐに肝臓が用意する。でも、いつも食べているものだと、肝臓は事前に準備する必要がない。だから、わたしは同じものしか食べなくなり、味覚センサーという警備員を置かないで済ませてしまう。食べ物を味わうという楽しみはどんどん減少する。ちょっと忙しいんで、味わう暇なんてないっすよー。


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