自己想起練習というのは、自分が無意識に同一化している印象、価値観、感情とか、イメージとかを次々に引き離すというもので、段階的に、純度の高い意識に戻る。これはタロットカードの11力のカードの、下半身からライオンを引き離して、それを見つめているという絵に描かれている。
この同一化によって無意識に張り付いているものを荷物と呼ぶが、荷物が重い人はもちろんその人そのものが重い。この荷物のことを自分の意識だと思い込んでいる。でも、自己想起が大変なのは、この自己同一化によって自己が不在になっている時、不在になっている以上は、その人にはその荷物は無だということ。指摘されても気がつかないのがほとんど。
H1は絶対の意識をあらわしている。絶対というのは意識が成り立たない。意識は何かに射出することでしか成り立たない。で、射出する対象は、概念とか思念とかイメージとか感情とか、想念とかいろいろだが、これらはみな対象であり、それとのかかわりによってはじめて意識があることが証明される。H1はこの主体と対象という二極化が成り立たないので、ここに意識は存在しない。
次に、H6は、能動を1とし、射出される対象を2として、この関係性の安定したセットを3とする。1と2と3を足してH6とみなす。この宇宙では究極の「意識が存在する」という状態をH6とする。ここでも、思い描くイメージというものはまだ存在しない。受動2は限りなく軽く希薄なので、これをイメージ化することはおよそ不可能だ。
で、このH6意識は、世界を体験したいと思って、自己を分割した。これがH12で、アストラル体ということになるが、アストラル体は、イメージとか思念とか想念とか気持ちとか感情とか印象とか、つまりこれらの世界の諸属性を味わうための計測器みたいなもので、世界を味わう基本スタイルをあらわしていると思うといいかもしれない。いろんなアストラル体があるが、これは世界をいろんな角度から味わい体験するということだ。H6には、この世界を体験するというボディがない。
色とりどりの印象をアストラル体と考える人がいるが、これはアストラル体が対象化して味わった結果のものを示していて、アストラル体は、この色とりどりの印象のことではない。アストラル体の基本は、太陽が自らを二極化して、太陽系の中に片足突っ込んだ姿だ。二極化太陽の周囲には色とりどりあるが、太陽そのものはまったく色とりどりでなく、中心でじっとしている。ひとつの世界を体験するための能動体のようなもの。平塚らいておの、元祖女性は太陽であったというときの太陽は二極化太陽なので、これをアストラル体と呼ぶといいのでは。アストラル体の基本は、世界を体験したいという「欲」のボディ。アストラル体は欲体かな。
わたしは恒星探索つまりH6探索の講座をしましたが、H6探索は、イメージで探索できないので、そこに誰かいたとか、都市があったとか、宇宙人がいたとかは、実はありえない話です。H6に対してはイメージ作用は重すぎて、この荷物が原因でたどり着けない。イメージがあるということは、H12探索です。
シュタイナーは、ブルックナーの音楽には、きれぎれだが、メンタル界があると言う。ベートーヴェンにもバッハにもありますよ。もちろん音楽には、イメージ、情感などが張り付いているので、そこに着目するのでなく、根幹にあるものを聴いてほしいという話ではありますが。で、クラシック音楽のfacebookを時々見ていますが、バーンスタインのマーラーは素晴らしいと書いてあったりするけど、マーラーって、メンタル界には届かないよなーといつも感じます。でもクラシック音楽のファンの話題で、こういう話題はそりゃ出ませんね。マーラーはわりに死の恐怖を感じていた。メンタル界意識には死の恐怖などありはしないのは当たり前です。アストラル体にもそんなものはないです。こういういろんな荷物を背負うことで、音楽はどんどん純度を失っていく。
この同一化によって無意識に張り付いているものを荷物と呼ぶが、荷物が重い人はもちろんその人そのものが重い。この荷物のことを自分の意識だと思い込んでいる。でも、自己想起が大変なのは、この自己同一化によって自己が不在になっている時、不在になっている以上は、その人にはその荷物は無だということ。指摘されても気がつかないのがほとんど。
H1は絶対の意識をあらわしている。絶対というのは意識が成り立たない。意識は何かに射出することでしか成り立たない。で、射出する対象は、概念とか思念とかイメージとか感情とか、想念とかいろいろだが、これらはみな対象であり、それとのかかわりによってはじめて意識があることが証明される。H1はこの主体と対象という二極化が成り立たないので、ここに意識は存在しない。
次に、H6は、能動を1とし、射出される対象を2として、この関係性の安定したセットを3とする。1と2と3を足してH6とみなす。この宇宙では究極の「意識が存在する」という状態をH6とする。ここでも、思い描くイメージというものはまだ存在しない。受動2は限りなく軽く希薄なので、これをイメージ化することはおよそ不可能だ。
で、このH6意識は、世界を体験したいと思って、自己を分割した。これがH12で、アストラル体ということになるが、アストラル体は、イメージとか思念とか想念とか気持ちとか感情とか印象とか、つまりこれらの世界の諸属性を味わうための計測器みたいなもので、世界を味わう基本スタイルをあらわしていると思うといいかもしれない。いろんなアストラル体があるが、これは世界をいろんな角度から味わい体験するということだ。H6には、この世界を体験するというボディがない。
色とりどりの印象をアストラル体と考える人がいるが、これはアストラル体が対象化して味わった結果のものを示していて、アストラル体は、この色とりどりの印象のことではない。アストラル体の基本は、太陽が自らを二極化して、太陽系の中に片足突っ込んだ姿だ。二極化太陽の周囲には色とりどりあるが、太陽そのものはまったく色とりどりでなく、中心でじっとしている。ひとつの世界を体験するための能動体のようなもの。平塚らいておの、元祖女性は太陽であったというときの太陽は二極化太陽なので、これをアストラル体と呼ぶといいのでは。アストラル体の基本は、世界を体験したいという「欲」のボディ。アストラル体は欲体かな。
わたしは恒星探索つまりH6探索の講座をしましたが、H6探索は、イメージで探索できないので、そこに誰かいたとか、都市があったとか、宇宙人がいたとかは、実はありえない話です。H6に対してはイメージ作用は重すぎて、この荷物が原因でたどり着けない。イメージがあるということは、H12探索です。
シュタイナーは、ブルックナーの音楽には、きれぎれだが、メンタル界があると言う。ベートーヴェンにもバッハにもありますよ。もちろん音楽には、イメージ、情感などが張り付いているので、そこに着目するのでなく、根幹にあるものを聴いてほしいという話ではありますが。で、クラシック音楽のfacebookを時々見ていますが、バーンスタインのマーラーは素晴らしいと書いてあったりするけど、マーラーって、メンタル界には届かないよなーといつも感じます。でもクラシック音楽のファンの話題で、こういう話題はそりゃ出ませんね。マーラーはわりに死の恐怖を感じていた。メンタル界意識には死の恐怖などありはしないのは当たり前です。アストラル体にもそんなものはないです。こういういろんな荷物を背負うことで、音楽はどんどん純度を失っていく。
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