12感覚のうちおとめ座は視覚。これは思考の投影であると言われているが、視覚は何かをくっきりと見る時に、くっきり見れば見るほど、こんどは見ていないものをくっきりさせる。そして通常のおとめ座は白黒、虚実をはっきり分離するが、発達したおとめ座は、見えないことで裏に隠したものも意識する。あれを見ていることは、あれでないものを見ていることも同じというふうに表裏が共存すると、おとめ座の縛りから開放された高度なおとめ座になるのだ。で、エーテル体では男は女の、女は男の身体を持つと説明したが、蝋燭の光の中で、鏡を見ている時に、鏡の周囲に、あるいは映し出された自分の顔の横に、そのエーテル体の裏の自分が出てくるというのは、発達したおとめ座を持たないことにはなかなか見えてこない。未発達のおとめ座は、表にある映像以外は存在しないと決めつけ、見えないものが侵入することに強い恐怖を抱いている。ゆえに、わたしはおとめ座の性質とは何か?というときに、恐怖と答えることもあるくらいだ。違う言い方をすると排他制御。裏を意識できる発達したおとめ座は恐怖を克服している。この恐れの問題はおとめ座のサビアンシンボルでは、10度の影の向こうを覗くふたつの頭というものに表現されている。反対側にあるうお座の10度は、この影すなわち雲に隠れてその向こうを旅する。物質の裏はエーテル体という初期段階のあらわれかたのなかでは、この裏を見るという技術が発達すると、そこに天国への階段が置かれていることを発見する。おとめ座は絶対にそれを見ようとしない。しかしもう一度言うが、見ようとしないということは、その態度の裏側では、しっかり意識しており、むしろ誰よりもそれを見ようとしているということに等しいのだ。わたしたちは視覚に支配されていることが多いので、この視覚は常に表と裏を作り出していることを知ると、これを応用して、非常に多角的なことができることを理解する。そして恐怖をうまく手玉に取ると良い。それは開閉弁だ。
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