ノストラダムスがマルチな可能性をその都度選びながら未来に進むということを主張している時、この連結されながら伸びていく時間を、わたしは時間の紐と呼んでいて、蛇のような形をしているが、空間はたいてい時間に従属し、空間はこの時間の紐の中に巻き取られている。というか空間は皮膜と考えるといい。で、この時間の紐は集団的に多くの人を包み込んでおり、たとえば地球においても全員が同じ時間のコースをたどらず、いくつかの紐に分かれて進行する。この複数の時間の紐をそれぞれある宇宙系とか呼んだりしてもいいのかもしれない。地球上で全員が同じ紐(電車)に乗っているわけではないので、すると、あれが正しいこれが違うなどという議論が成立しない。ところが、わたしたちは想念が制御できず、偶発的に何かに好奇心を抱く。これによって時間の紐は空間を吸収できなくなり、列車はずっと駅に止まったままになることもあり、走ったにしても、違う列車と衝突しかねない。穢れを祓うとは、時間の紐がほかに衝突しないで自分の選んだ方向に進むことをあらわしている。穢れを祓うというのは、うお座の25度のテーマだ。そのことで、26度で自分の選んだ方向に発進する。もちろん自分の選んだということより、集団的に共通のグループの動きだが。それぞれの時間の紐の進行を混乱させる要因のひとつは対人関係などがあるが、その意味では地球はタコ足配線の場、片付けられない症候群の人の部屋のようなものと考えてもいいかもしれない。
今日noteにまた短編をup。タイトルは月下独酌
https://note.mu/lockwood/n/n76afe6792d9e
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