2019年1月30日水曜日

20190130 活け花をする気はないけれど

人間の主体は身体の外に出ることができる。出られない人がいるとしたら、それは身体に結びつくことのみで発生する欲などに拘束されているからだが、いったんそれが満たされると外に出ることができるようになるのは十牛図の第八図に描かれている。外に出るときにひとつの方向に出るのでなくエーテル体のラインに沿って出ると、それは放射状に広がる植物のようなものに。枝の数は分身の数と見立ててもよい。この植物形態は身体内では血管の図だが、外はその同じ図がマクロに拡大するということだ。すると分身というのは結局内臓なのかと思うかもしれないが相似象だ。身体から出ると、ものの大小、距離、時間の順番などの秩序が一気に崩れるので、そこで見る宇宙図は、天文学的に見た地図とはおおいに違う。ただ人それぞれ違うものを見るのでなく客観知識として明確に共通したものがあり、むしろ天文学的な地図こそ身体を持たないと見えてこない主観的な地図だ。身体を根にして見る図と、中空に浮かんで中立的な観点から見る図。ところで、身体から飛び出してエーテル体のラインに沿って拡大していくエルダーセルフをそのまま描こうとしたのが活け花だ。その人の存在のありかたがそのまま活け花になり、たぶん造形を模索している時に、枝のひとつひとつに意識が入ってしまう。ずっと以前粘土をしているときには、粘土の中に自分が入ってしまうので、ひどく消耗したが、活け花は拡大意識というか変性意識に確実に入るだろう。変性意識に比較するところの日常意識とは身体の中に拘束された意識というものだ。指一本のサイズでも意識が身体の外に出ると変性意識、エルダーセルフの状態になる。

noteはアクティヴユーザー数が1000万人を突破したそうです。で、わたしはここに小説などを掲載していますが、そこそこ売れており、売れているということは、わたしはプロの小説家と考えてもいいのかもしれません。というのも金が入る作家がプロだからですよ。懸賞とかコンクールとかの入賞は避けたほうがいいです。それは商業主義に染まっているからで、PV数とか売れる人数とかで判断してしまうと、内容は腐敗します。ピラミッド構造の中では、一番数が多いところに照準を合わせると、内容はひどい話にせざるを得ないからです。わたしはリルケのマルテがとことん好きですが、というよりリルケがほんとに好きですが、マルテなんてまったく売れてないじゃない。ベルゼバブも10年で一万部行かない。出かけるのが億劫なので、書いてnoteにuploadして、その後何のフォローもしないまま、次のを書くという生活は楽しい。で、紙本は校正が何度もあり、まえがきとあとがきもあるので、調子に乗ってたくさん本を書くと、後で大混乱します。noteとかキンドルは、こういうのがなくて、その日のうちに出版完了します。noteのコンセプトに「誰もが創作をはじめ、続けられるようにする」というのがあるらしい。なかなか良いです。宮沢賢治のしろうと芸術家がいいというコンセプトがここで実現されている。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。

20241106 まだ声を出すのに躊躇する

 なので、教材を作りたいが、まだ待っている。完全に回復してない。 ところで、サビアンシンボルについて、人は一生で、ひとつのアカシックレコードというか、サビアンシンボルを体験すると考えるのがシンプルで良いのでは。72年で1度。 しかし、このアカシックレコードに深く同一化しているので...