昨日の講座で、濃いエーテル体について話したけど、エーテル体は物質体とアストラル体の間に張られた橋だとすると、これを虹のように7つの階梯に分類できる。そうしないことには、エーテル体の機能が多様すぎて、むしろ混乱する。この場合、働きかけは常にアストラル体からエーテル体に、エーテル体から物質体にという方向であり、反対方向はない。振動密度が高いものは低いものを対象化し、自分よりも高いものからは対象化されるということと同じ。で、昨日ハワイのカフナでは、墓場の死体からエーテル体を抽出すると説明したが、古代の日本ではこれと似たようなことは日常茶飯事で行われていた。共同体の中で誰かが死ぬと、その魄を食べた。ミンダナオで、死に行く戦友が俺を食べて日本に連れて行ってくれと言ったようなものと似ている。物質肉体に置かれた自我を、エーテル体に移すと、エーテル体の側から物質に働きかけるという視点になる。エーテル体が物質体に近ければ近いほど、物質そのものを動かすということになる。これをしてはいけないというのは癖になるからだ。物質体からエーテル体に自我を移すと、物質体とはまったくタイプの違う自分を発見するというのは当たり前だ。それは裏人格だ。そこで魔術的人格というものを想定することもあるのだろう。この魔術的人格は、物質体に働きかける専用か、それとも、上位のアストラル体を引き下ろす専用か、あるいは両方に使えるものなのか、いろいろかもしれない。長いローブを着ている時には、これはエーテル体のわたしなのだ、と意識することになる。またエーテル体は人の形をしていないと説明したが、バリのお面とか、形相の派手な極彩色の仮面などは、この「低いエーテル体」を模したものだ。物質に近いということは、人の形に少しだけ近いのだ。だから反対の性にもなる。エーテル体の7段階をたどると、パラパラ漫画としてのシェイプシフターになる。物質に働きかけるとは、科学のことだが、精神に連動する働きかけは濃いエーテル体で、精神に連動しない働きかけは科学ですると良いのでは。神社の祈祷は明らかに物質体に働きかける力もある。宮司がそのテクニックに通暁していればの話だが。秦伊侶具はエーテル体の扱いの達人だったと思うのだが、これに似た人が現代にいると神社機能の根源的なものを活用できるだろう。
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