2018年11月1日木曜日

20181101 紺色の蔦

アイソレーションタンクに入った時、自分の身体を紺色の蔦が覆ったのを見て驚いたが、この蔦を細かいピースに切り離すと、ひとつずつが文字だと思った。蔦が覆うのは、耳なし芳一だ。で、通常の地球人意識の基準はH48だが、H48は通常の思考の物質でもある。つまりH48人間とは思考に同一化している存在。思考とか考え、言葉などを自分と同一視すると、特定の思考にしがみつく結果になるので、もちろん文章の神様とか小説の神様はやってこない。ひとつを掴むと、ほかを締め出すことに他ならないからだ。アサジョーリの言うように、思考はわたしではないと宣言して、自分と思考を分離すると、石を投げられたように思考がどこかから飛び込んでくることもわかる。文章の神様がやってくるというのは、どこかから思考とか言葉を投げつけられたということだ。エーテル体は身体から外に広がる。この広がった意識を自分とみなすと、思考と同一化した肉体的な自分を、道端にころがった石のように対象化する。この石にはなにやら文字がびっしりと書かれている。いろんな考えが浮かび、そのたびに、頭とか身体に、文字が浮き出してくるのだ。エーテル体は網目のようなもので、この線と線を結ぶケーブルタイのようなところが文字なので、身体に近い下位エーテル体は、やはり身体を取り巻く耳なし芳一の文字のように見えるということだ。まったく非個人的なH12とかH6と、個人としての肉体をつなぐのがエーテル体なので、いまだにエーテル体は謎で、個人的なものと非個人的なものの間を伸縮する。局在と非局在をつなぐというのは、理屈として謎だ。

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