人間の基礎的な三分節である思考、感情、身体はたいていの場合、ばらばらに働き協力しあわない。これがタロットカードでは6loversのカードに表現されており、下の三人がそれに該当する。グルジェフの5つのセンターでいうと、身体性に動作センター、性センター、本能センターがあり、この三つを調整しないと身体性は感情にも思考にも同調はしない。性センターは本来は完全な無関心が特徴だと言うのだが、地上では男女に分裂しており、物質の裏にあるかのような一番低いエーテルに、反対の性が隠れているので、これを引き出し、物質的な面で持つ性と結合すると両性具有になり、生命体本来の外界に対する無関心さが回復する。この性センターは地上と切り離すと、やがてはアストラル体に成長する。本能センターは、繰り返し行動の中で自動化し、本人がもう意識できなくなったもので、速度が速い(H24)ので通常の思考(H48)ではコントロールできないもの。考える前にやってしまいました、というもの。表面的には本人の行動・動作の癖の蓄積であり、深い部分では集団的な記憶の蓄積をしている。この書き換えと整理をしない限りは、精神的などんな努力も定着しない。もうひとつ動作センターは、この本能センターに強く影響を受けるプラスマイナスの関係。性センターが相対的ゼロポイントだ。本能的に記憶されたメモリーは、繰り返しによる新しい書き換えが必要という点で、癖を抑えた普遍的な運動などの修行が効果的だ。動作と思考は密接に連動(いて座とふたご座の180度)しているので、その人の固有の動作の癖が残ると、どんなことも正しく理解せず、まげて理解することになる。英語を勉強したかったが15年邪魔され続けたという人の話を聞いたが、思考が英語を勉強したかったが、感情と身体がそれを聞き入れなかったということだ。つまり思考、感情、身体は協力しあわないのならば、どんな小さなことも達成できないということだ。非個人的な高次センターに関しては、この下位の思考、感情、身体が全部受け入れ体制になり、固有の主張をしてはならないということで、さらに難しい課題だ。
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性センターが完成形になると、それはアストラル体の個性を持ち始める。本能センターは、このアストラル体からは少し逸脱した、集団的な癖がメモリーされている。アストラル体が真の神話的個性だとすると、本能センターにあるものはそれに付着した苔のようなものを含む。性センターをゼロポイントと定義したのは、それをリファレンスにして、両翼で本能と動作センターが働き、本来はアストラル体の個性に基づく行動の特性が発揮されるべきだということだ。虎は虎のように行動するべきなのだ。ところが性センターが地上で男女に割れてしまうと、外界に対して関心を抱いてしまい、自分の本来性とは無縁な影響を取り込んでしまう。それによって本来の個性から脱線した癖が本能センターに贅肉のように蓄積されてしまうのだ。外界に無関心な性センターと動作・本能センターをそろえることは、つまりは生命としての美を体現することになる。世の中で言う美と、生命の本来の美は多少違う。というのも世の中で言う美は、時代性とか主観性が強いので、もっと表層的な基準で考えてしまうからだ。
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思考、感情、身体は協同する必要がある。たいていの場合、これはばらばらだが、すると、どういうことも達成できない。思考とか精神活動だけでは身体にリライトされることはなく、すると、成果は定着しないまま失われる。哲学議論してもそれは机上のもので残らない。思考が身体の中にある本能センターに刻まれたということを確認するには、手相の変化というのはわかりやすいのでは。手相が変化すると、それは身体の中の本能センターが修正されたということだ。20年くらい編み物をしていた人が、手相が変わったと言っていたが、そのくらい繰り返すと、本能センターに刻印される。手相は時々見ているが、ある日急に変わったり、線が増えたりする。本能センターへの反映という点では、とてもわかりやすいインディケーターだと思う。たとえば、わたしはヘミシンクとかしていると、頭脳線の先に、月丘に落ちる支線が増えた。わたしの頭脳線はとても長いが、手の側面まで頭脳線が伸びてしまった。手相は、思考でも感情でもなく、本能センターに刻印された印を示す。
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性センターが完成形になると、それはアストラル体の個性を持ち始める。本能センターは、このアストラル体からは少し逸脱した、集団的な癖がメモリーされている。アストラル体が真の神話的個性だとすると、本能センターにあるものはそれに付着した苔のようなものを含む。性センターをゼロポイントと定義したのは、それをリファレンスにして、両翼で本能と動作センターが働き、本来はアストラル体の個性に基づく行動の特性が発揮されるべきだということだ。虎は虎のように行動するべきなのだ。ところが性センターが地上で男女に割れてしまうと、外界に対して関心を抱いてしまい、自分の本来性とは無縁な影響を取り込んでしまう。それによって本来の個性から脱線した癖が本能センターに贅肉のように蓄積されてしまうのだ。外界に無関心な性センターと動作・本能センターをそろえることは、つまりは生命としての美を体現することになる。世の中で言う美と、生命の本来の美は多少違う。というのも世の中で言う美は、時代性とか主観性が強いので、もっと表層的な基準で考えてしまうからだ。
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思考、感情、身体は協同する必要がある。たいていの場合、これはばらばらだが、すると、どういうことも達成できない。思考とか精神活動だけでは身体にリライトされることはなく、すると、成果は定着しないまま失われる。哲学議論してもそれは机上のもので残らない。思考が身体の中にある本能センターに刻まれたということを確認するには、手相の変化というのはわかりやすいのでは。手相が変化すると、それは身体の中の本能センターが修正されたということだ。20年くらい編み物をしていた人が、手相が変わったと言っていたが、そのくらい繰り返すと、本能センターに刻印される。手相は時々見ているが、ある日急に変わったり、線が増えたりする。本能センターへの反映という点では、とてもわかりやすいインディケーターだと思う。たとえば、わたしはヘミシンクとかしていると、頭脳線の先に、月丘に落ちる支線が増えた。わたしの頭脳線はとても長いが、手の側面まで頭脳線が伸びてしまった。手相は、思考でも感情でもなく、本能センターに刻印された印を示す。
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