2018年11月30日金曜日

20181130 主体が溶けると

唯識論の横山紘一式に言えば、十牛図の第八図人牛倶忘は、主体と客体が溶けて、主体のありかもはっきりしなくなる状態。主体を点であらわすと、この点がなくなった絵が描かれている。この円は大きな自己をあらわすのだが、わたしたちは小さな自己として生きているので、かならず主体があり、第八図はこの小さな自己が溶けて大きな自己という円に「引き上げられた」状態でもある。固定された主体が溶ける必要があるのは、第九図で外宇宙に飛び出すためだ。つまり第八図の大きな円は、これまで住んでいた宇宙全体ということをあらわしていて、主体という一点のピンをはずすと、はじかれたように外に飛び出す。今日の夢は、魚座で作ったアストラル体が船になって、筒をぬるぬると抜け出すという映像だが、夢を見た直後は、何をいまさら、と思った。そのことについてはすでに説明したはずだからだ。夢では12サインは筒のようになっていたので、蛇の脱皮のような映像を見ていたことになる。なぜいまさら、この光景を見せたのか。ひとつは第九図で外に飛び出すと、第八図で成立していた世界という円はしぼんで消えてしまう可能性。というのも主体と客体のセットで世界という信念体系が作られている。主体を抜き出すと梁が除かれた家のように倒壊するのでは。世界はそのままにして、そっと抜け出すという行為は難しい。主体と客体の固定的な関係性がいったん緩むと、過去の記憶も書き換えられたり違ったものになるので、宇宙に飛び出し戻ってきたときには、思い出の場所、なじんだ場所がどこにもないのだ。過去の記憶は自分という主体が同じ場所にじっとしていたからこそ形成できていたもの。確かに第十図で山から下りて町に入っても、そこは自分がかつて住んでいた場所ではなくなっているし、町の人から見ても、この山から下りてきたツァラトゥストラは怪しい謎の存在だ。覆水盆に返らずか。新しく記憶を作ったり、最初からやり直すというのはある。



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