2020年10月21日水曜日

20201021 思考の鋳型と、中身の感情

 メールです

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また、型に流されるというのが節制のカードに通じるというのも思いつかなかったことで、それもそのはずで、私は節制のカードはパスワークでもあまり印象に残ることがなく、先生の本で陽神と読んでも、自分の中にある体験としては節制はピンと来なくて、それこそ薄っぺらくしか分からないと悩んでいたので、今回のことで節制のカードも少し理解が深まりました。

それから思考も自分ではないということが、はじめてわかりました。

今までは「思考も自分じゃないんだぞ」と自分に言い聞かせている感じでしたが、

思考は自分ではない決定的瞬間を体験してしまったため、そうなんだなと思わざるを得ません。

ただ私は、感情は自分ではないと思うことが難しいです。

一瞬なら可能ですが、まじまじと取って眺め、これは私ではないと真に思うことが難しいです。

型にふさわしい思考になった時、感情の変化も感じましたが、

それでもなお、感情は自分ではないんだと、気づこうとしない自分がいます。

どうしたら気づけるかと、最近よく考えています。

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鋳型の中に液体が入り込んで、この型に染まった時に、それにふさわしい思考になるというのは、14節制のカードに結び付けた。ある型に染まったとき、それ以外の型の記憶を失う。なので、これは転世のようなものでもあるとわかる。型に染まった自分に同一化しすぎないで、液体のほうが自分だと思うと、記憶は連続する。これが血の記憶。血を攪拌して、他の家系の人の血と混じると、先祖の記憶を失う。人間がいまよりもずっと長く生きるために、記憶の連続性をもっと長く伸ばそうとした時には、固形物としての土の元素に足場を持つのでなく、液体の上に足場を持つ。降りてきたスタピ、仙人はこの状態をあらわしている。で、タロットの小アルカナのカップは、カップの中に液体があり、しかし水の元素をあらわすと解釈され、器のことを無視している。これは土と水の関係性であると言いました。

土が思考、水を感情とあてはめるとわかりやすいのかもしれない。で、思考感覚はおうし座で、ここでは牛のように動かない思考ががっちりと固定される。反対の180度側にある水の元素は、さそり座の生命感覚。これは感情的実感で、感情そのものをリアルにしみじみと受け止めているので、密度が高まると迫力が出て、密度が薄くなると、空虚に感じる。

器の形が変わると、中につまったさそり座の液体は、思考の型に即応した感情を実感として持つようになる。さそり座の感情は、おうし座の思考の鋳型に「束縛」されており、それを密度を高めるための器として利用している。水は常に土の器と密接な関係を持つとすると、おとめ座の光と影にわけて、明晰な輪郭の部分だけを重視するという細分化の土機能に対して、うお座は影の部分まで引き出して、統合化しようとするので、ある意味土の器を壊すというような感情作用。かに座の水は、山羊座の箱と密接な関係があり、でも、これも箱の中で水をためこんでも、共鳴作用によって、箱をゆすぶるし、外にはみ出してしまう。アンテナと電波の関係とか、シャリアピンが声を張り上げて、オペラハウスのガラス窓を割ってしまうみたいな。(実はカルーソーですが。)

水の元素と土の元素で六角形を作りますが、感情作用と定義した水が、思考の型と定義した土の元素から離れると、形がなくなり、つまり思考の明確な輪郭がなくなり、あらたに土の器を求めて、ワイングラスから、風呂おけ、湖、川、海、全惑星意識のスープへと、拡大していくのでは。拡大しても、行き着くところは土の器。

でも土の器という思考の鋳型の大きさが拡大するつど、思考は変化してしまい、気持ちも変化し、そこで拾ってくる情報は変化する。この可変するサイズの水の元素を客観視して、「感情はわたしではありません」というのは、難しいか、あるいは不可能では。

アサジョーリの言う、感情はわたしではありません、というのは、身体という鋳型に寄り添って、この中に封入されたさそり座の水に対して同一化しないという程度では。ちなみにエニアグラムでは、思考は太陽系の外にまで飛び出せない。9の位置から、外に飛び出すのは感情だけだと説明したけど、器から漏れた液体は、どこまでも漏れてゆき、存在の範囲を決定づけている「無と無限の壁」の無のぎりぎり手前までは飛び出すことができる。

H12は、高次感情センターの振動密度ですが、これは客観意識に属しており、つまりまったく非個人的なもの。つまりは個人意識が客観視する限界を超えている。個人はこれを対象化できず、逆に、高次な感情に洪水のように飲み込まれることしかない。相撲すると、確実に高次感情に負ける以外にないし、記憶が飛ぶ。高次感情の入っている器は太陽系のサイズなので、個人意識はただ消えるしかない。

というわけで、高次な感情になると、それを客観視することは不可能と言ってもいい。低次感情については、これはわたしではありません、と言える。感情というものはサイズがいくらでもかわる、ということが原因では。

自己想起は、見ているわたし、見られている対象という互いの縛りあいにたいして、第三の視点を与えるので、ここで見ているわたしと、見られている対象そのものががらっと変わってしまうことが多く、たとえば、腕時計を見ているわたしというのを、違う角度から見ると、実はわたしというのは、細い針のような棒の上に立って腕時計を見ていたということに気がつき、こうなると腕時計を見ているという狭い関係性よりも、棒の上という、より重大なことを知ることになるけど、これも思考の器から感情が範囲拡大して、より大きな器に従属することに通じる。自己想起すると、気持ちとか感情というものが著しく変化するものなのです。

基本として物質密度が低くなると、振動密度は高くなる。肉体という小さな器の中に水をためていると、感情の振動は高くなることはない。このような人が、SNSで、知らない人に対して死ねと言い続けることになる。

こないだ、雑誌のインタビューで、インタビュアーのクラシックの音楽評論家の人に対して、わたしが「クラシック音楽は身体から外に広がるものだ」と言った時、そのことに同意して、同じクラシック音楽評論家のある大学教授が、その人をいじめまくったという話をしてきました。その教授は、このインタヴュアーに対して、科学的でないと言うらしい。科学というのは、個人の肉体という鋳型、この中におさまる感情というものが「基盤」になってはじめて成立する視点スタイルです。つまりある意味自己想起しない分野。

科学的ということにこだわる人は、わたしが見ると、常に怒りと攻撃心に満ちています。それは肉体に閉じ込められたストレスから来ています。この心理についてはスティーブン・キングがやたらに詳しい。この攻撃心は原子爆弾まで作ってしまった。

クラシック音楽を科学的に考えるって、いったいなんだ?トマティスみたいなことを言うような感じ?クラシック音楽は、身体の外に果てしなく広がる。その作用を科学的には説明できないでしょう。科学用語は身体の中にあることだけを説明できるからです。ひとたび外に出ると、この個体言語としては言葉を失う以外にない。

ps.

双子座のスケートの子供は、光と影を逆転させる。おとめ座のメリさんは、そもそもおとめ座が光と影を分離して、影を排除するべきものとみなす作用があることに対して、光と影を仲良く調和させる段階にまで来たと説明しましたが、羊を影と定義してしまったのは、そもそも16度でオランウータンが、子供に対して影として働くということから、エリスは動物を影的なものと解釈しているんだろうなと。西欧社会ではタロットカードの11力で見るように、動物は影的、獣的衝動とみなしてしまう癖がある。日本では考えられない。

みずがめ座のサビアンの階段に関してのメール。

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昨日はヘリオの地球ポイント·水瓶座12度「上へと順に並ぶ階段の上の人々」、水星·水瓶座2度「予期されなかった雷雨」、金星·魚座12度「新参者たちの試験」を意図して寝ました。

今朝目覚める直前、白い紙に黒い色で北斗七星を横にしたような図形が描かれている物が目の前に出されました。

覚えているのはこれだけなのですが、これは星座?と思ったのですが、星座は地球から見た地球人が決めたものだから違う。地球への通行手形か、シジルのようでもあり、刻印のようでもあり、とぼんやり考えていたところ「経路」と浮かびました。

線の途中に●があったので、最初は星座かと思いましたが、あれは地球まで来た経路が記されていた紙でした。それも空間的位置ではなく、振動数か密度の違いを表していて、楽譜のように上がったり下がったり、北斗七星を横にしたような形になっている。

あ、ちょっと階段みたいですね!ここでサビアンに繋がりました。

いつもこのサビアンについて考えると、階段に並んだ人々を離れた場所から見てる感じがするのです。

どこからどういう経路でやって来たのかの調査員なんだろうか?

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わたしは北斗七星について、前は険しい角度の崖みたいな言い方をしたんですが、北斗七星は「道TAO」を作り、結果的にスロープのきつい階段を作ることになった。まえから北斗七星と、映画アバターに使われたような中国の岩の塔などがイメージとして結びつくのだけど、わたしの母親はそういう直立した岩みたいなものを掛け軸に書いていたような、書道の先生でした。(大東文化大学の教授。教授なんだけど、科学的ではないな。)今は、ほんとに北斗七星に戻ってる。

で、階段のサビアンだけど、「いつもこのサビアンについて考えると、階段に並んだ人々を離れた場所から見てる感じがするのです。」というのは当たり前でしょう。離れたところから見ないと、階段だとわからない。離れたところから見ていない人は、ほとんど、階段のどこかにいる人に同一化して、階段のことはわからない。

で、階段とか段階を作ると、試験も作れるが。中間試験とか期末試験とか。




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