三浦春馬さんに会おうとして、三浦氏がやたらに怒っているということをメールしてきた人がいました。そもそも自殺する人は、人格とか個体を途中で使うことをやめた、という意味です。地球的人格、個人は、トータルな自己からすると、季節の洋服みたいなものです。ほかにも洋服はたくさん持っているものです。で、いままで着ていた洋服は買ってしばらくは着ていたけど、なんらかの理由で使うことを断念した。その理由はいろいろで、他の人が勝手に推理できません。
死んでしばらくは、この人格を小ぎれいに脱ぎ捨てる期間で、この三浦春馬という物質的存在性を脱色している途中に、誰かが、この人格を強調するかのように近づいてくると、つまり近づいてくる人からすると、この地上的人格の面しか知らないので、近づくすなわち特定の人格を強調することになり、取り除こうとしているものを、また被せてくる行為になります。
まだ上手にできていないときに、それをされると、自分がやっていることが台無しになりそうなので、怒ります。なんせ肉体を持っている間は存在は肉体によって閉鎖されたというか、守られていたのだけど、死んだら、この被膜がないので、誰かからの感情の投影などはかなり強く働いてきます。それでも人格を捨てた段階では、もう特定の時空に同調しないので、誰がどうしようがほとんど響いてきませんが、この人格、すなわち特定の時空に同調する装置がまだ少し関係が残っている時には、混線してしまうという状態です。
わたしは死んだ人には基本的に自分のほうから近づきません。ドロレス・キャノンの場合、死んで時間が経過して、もう地上的人格の側面は捨てて、本体としてのアストラル体に純化されていたし、さらにドロレスのほうから、わたしとドロレスの間の壁を取り払ったので、これは正当な関係性で、わたしは歓迎します。自分のほうから壁を取り払ったりしないです。
二月に死んだ母親の場合、死んだ直後に、わたしのそばに来ましたが、この場合も明確な目的があり、目的を果たすと遠ざかるということもはっきりしていて、これにも混乱はないです。ずっと前に、自殺した息子がなぜ自殺したのか、母親の女性が聞いてきたことがありますが、この時にも、母親がそのことをわたしに質問してくる前に、夢で、息子が出てきて、いろんなことを説明してきました。母親が質問した時、はじめて、わたしはこの見知らぬ男性が、どうしていろいろ夢で説明しているのか理由を知りました。
で、この息子の場合、自殺は途中放棄でなく、統合化の目的でした。自殺は間違っているのか、いけないことなのかというと、例外的にそうではないケースもあります。人間はたくさん生まれてきますが、決まってみな同じ形で、手が二本、足が二本、頭がひとつとかの形です。これはエーテル体の祖型があり、この鋳型を採用するからです。この鋳型は、アトランティス没後のエジプト時代にリニューアルされたと考えるといいでしょう。祖型はまた時代によって少しずつ改良されたり、加工されたりすると思います。たくさんの人がユニクロ買うのと同じです。
で、肉体を持って生きている時のある瞬間に意図的に自殺したりする時に、この境界線領域で、自分の考えた型をエーテル体に刻印したいと思う人がいます。エーテル界のデザイナーですね。関門部分は、エーテル体と、肉体のつなぎ目で、ここに型があると、それは多くの人に波及する可能性があります。キリストのゴルゴダの秘蹟は、その後非常に多くの人の型に影響を及ぼしたと思います。ゲーテがウェルテルを書いたとき、非常に多くの若者がそれをコピーした。
何か型を作りたいとか、能動的に自殺する人は、一番生き生きした人生最高の時に死んだりします。周囲の人はなぜ死んだのかまったく理由を知ることはできません。うつ病のかけらもありません。先ほど書いた、息子がなぜ自殺したのか、母親は理解できないから、わたしに聞いてきたのです。母親でさえ理解できない。わたしの夢の中で、息子は「ここはけっこういい。楽しいと伝えてほしい」と言ってました。物質世界は風化する。限られた時間、限られた空間は、あっという間に去っていくので、この物質界で、成果を固定することは不可能。どんなに優れたものも、あっという間に壊されます。エーテル界では、この時間と空間の風化がないのです。
最初に説明した、人格を脱ぎ捨てる途上で、足を引っぱられると怒る、という話と、エーテル界で芸術家のように型を作り出す人というのは、違う話なので、ここで言えることは、さまざまな意図、目的があり、能動的な自殺もあり、他の人はこれらについて知ることはできないということですね。
死んだ後、人格を捨てたかどうかを判断するには、人の形をしているか、していないかで考えるといいかな。肉体の思い出を捨てて、エーテル体とかアストラル体になっている場合、まず確実に人の形をしていません。わたしがスカイプで習っていたダバオの英語教師は、自殺したのち、しばらくして、サンショウウオみたいな形になっていて、それで満足らしい。死んだ後にも、まだ人の形を残している存在は、肉体的な世界にしがみついているという点で、ちょっと恥ずかしい人かもしれない。まだ掴んでんの?というところです。
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